−Fogata号の軌跡−

<<ペンション西海>>

 バスに揺られて10数時間。やっとペル−の首都Lima(リマ)に着いた。
途中、ペル−人に話しかけられ、辞書を片手に持っての会話でかなりの時間を潰したにも関わらず、やはり、長かった。
まともに、自転車に乗ってきていたらおそらくひと月はかかる距離なので長くて当たり前だ。

 「地球の歩き方」に載っている日本人宿「ペンション西海」を訪ねようと、バスの中で知り合ったペル−人に住所を見せ、ここからどう行けば良いのか尋ねると、その辺はとても治安が悪いからタクシ−で行ったほうが良い、と言われ従うことにした。
まだまだペル−という国になれていないし、悪名名高いペル−を無事に抜けるには現地の人の言葉を無視するわけにはいかない。

 タクシ−で目的の住所のところの前に着くと、そこは人が住んでいるかどうか分からないほど傷んだシャッタ−で閉されていたので、「しまった! 引越ししてしまったのか? う−ん、どうしよう?」と、考えていると、タクシ−の運転手がシャッタ−を叩いてみろ、というので言われるまま叩こうとした。すると、シャッタ−の右上のところにブザ−があったのでまず、それを押してみた。しばらくすると中から「どなたですか?」という声がして、すぐに「日本人旅行者です。ここは西海ですか?」と答えると、「そうです!」という声とともにシャッタ−についている小さな扉が開いた。

 中から日本人が出てきて温かく向かい入れてくれた。
初めに口にした話題はやはり入り口のシャッタ−のことで、聞くところによると 、日本人の何人かは西海の前まで来て引き返していくそうだ。怪しいシャッタ−の中はさらに怪しく、薄暗い。全体的に湿っぽく、太陽の光が差し込む隙間のない、ただ電灯の明かりだけが唯一の光源のようだった。細い通路を抜け奥の広間に通された。広間の大きなテ−ブルには3人ほどの旅人たちがいて、久しぶりの日本語を喋れて嬉しかったが、このときくらいから自分の喋っている日本語のイントネ−ションの変化に気付き始めていた。関西人のはずが何故か関東弁になってしまっていたのだった。それは日本に帰ってきてもしばらくは続いていた。

<<日本からの手紙>>

 リマに来ての一番の目的は何と言っても日本からの手紙を受け取ることだった。予め、この時期くらいにリマに着くので日本にいる友人たちにリマにある日本大使館宛に手紙を出してもらっていたのだった。


 大使館で自分の名前が呼ばれ、手紙を受け取ると、予想以上の手紙と小包がきていた。大使館を出てすぐにいくつかの手紙に目を通した。
サ−クルのみんなからのメッセ−ジ、すでに卒業しているサ−クルの先輩達からの手紙、大学の友人からの手紙ではみんな就職先が決まったらしい。
前回のマレ−半島縦断のときにマレ−シアで知り合った石塚さんの手紙では日本のニュ−スについてかなり詳しく書いてあり、日本のことがよく分かった。
ボ−イスカウト関係では大学1回生のとき、ロ−バ−ム−ト'93というボ−イスカウトのお祭りに参加したときから手紙でやりとりしていた福岡に住んでいる行武さんからボ−イスカウトの機関誌に南米の記事を載せないか、と言う申し出があり、どうしようかと悩んだが、自分の文章をそういう形で発表できるチャンスだと思い、引き受けることにした。
手紙の多くが日本ではO−157というのが流行っていて、日本中が大変なことになっているということが 書かれてあった。ただ、一つ気になったのはアルバイト先の友人たちからの手紙が一通もなかったことだった。何か手違いでもあったのだろうか?

 旅先でもらう手紙ほど、うれしいものはなかった。今だから言えるが、手紙を読んでいると、涙が止まらなかった。別に日本が恋しいのではない。ただ、多くの人たちがこの旅に声援を送ってくれているのが分かったからだ。旅にでる前もそうだったが、出てからもず−っと友人たちに支えられているということがよく分かった。とりあえず、ここ、リマから日本へお礼の手紙でも書こう!

 <<いよいよ、憧れのナスカの地上絵のあるナスカへ向けて出発!!!>>

 もう、西海に10日間もいて、そろそろ旅に出たい、という衝動に駆られていた。
何故かはわからないけど、どうもリマに他の首都にあるような魅力が感じられなかった。メキシコシティ−、ガテマラシティ−、ボコタ、キトといった国々では1日中用もなく、街中をフラフラとしているのが楽しかったんだけど・・・。何故か観光しようという気にはなれなかった。旅に疲れているんだろうか?そんなことを考えながらもう、これ以上、ここにいても時間の無駄だったので出発することにした。
 いよいよ、ナスカだ!今回の旅の目的のハイライトで、子供の頃から、いつか絶対に行こう!と、考えていたので、一層、気合が入る。

 朝、10:00に出発。久々のサイクリングで怠けていたせいもあって、だるかったが気合でそんなだるさを吹き飛ばしていた。
 初日の夜は今にも何かが出てきそうなあばら家の中にテントを張り、もし、何かが出てきてもスペイン語だし、何を言ってるか分からんし、大丈夫だ!と、自分を励まし、眠りについた。結局、何も出てこないまま、朝を迎えた。ただ、気になったのは遠くで吠えていた犬の声だった。

 リマからナスカまでは450km程で、ほとんど、平坦で楽だった。実際には数百メ−トル差のアップダウンがあったのだが、道はきれいにアスファルトで舗装されていたし、ほとんど毎日、地平線のようなところだったので、あまりそうは感じなかった。
 ただ、ペル−沖にはエルニ−ニョ現象を起こしている南極からの海流、ペル−海流(フンボルト海流)があり、海岸砂漠がずっと続いていて、どこまでも砂丘が続いていた。日差しは暑く、汗だくにはなるんだが、寒流のせいで休むとすぐに体温が奪われるのでゆっくりと休むわけにはいかなかった。

 <<電気のない町>>

 リマとナスカの間には所々と町があり、安いホテルもあった。
ペル−ではやはりキャンプは危ないというのもあったが、それよりも物価の安さに感謝し、ホテルのある所ではホテルを利用した。
 3食レストランで定食を食べ、ホテルに泊まっても1日US$10もかからなかった。次のアンデス越えのときには途中にまともな町もそう多くは無い、と聞いていたので、できるときに贅沢をしておこう、とジュ−スやチョコレ−トなどをいつもより多めに買ったりして、快適なサイクリングを楽しむことが出来た。

 いつものように夕方に町に着き、ホテルを探しているとすぐに見つかり、値段を聞いてみるとちょっと高かったので、別の所を探すことにしたら、「ここが一番安いのに・・・。」、言われたが、そんなことはないと思い、別のところを探した。しかし、いくつかあたってみてもどういうわけか最初に行ったホテルが一番安く、しかたがないので戻ってみると、「そら、見ろ!」ていう感じだったが受け入れてくれた。
 あんまり納得の出来ない値段だったので「シャワ−の水は熱いのか?」と聞くと、「もちろん!」と言われ、そのホテルににお世話になることにした。夕方、暗くなってきて電気の スイッチを入れても、つかなかったで「電気がつかないいんだけど・・・。」と、ホテルのおばちゃんに言うと、「ちょっと待ってちょうだい。すぐに持っていくから。」って言われ、エッ!?今、持ってくるって言った?と思いながらも、自分のスペイン語の理解がまだ不充分で聞き間違ったのだろうと思っていた。
しばらくすると、おばちゃんがコ−ラの空き瓶に火のついたろうそくを立てて持ってきた。はあ?「電気がつかないって言ったんだけど・・・。」と言うと、「今日は電気が無いのよ。だから、これ、はい。」と言い、ろうそくを置き、どこかへ行ってしまった。
訳がわからないまま、まあ電気が無いんならしかたがないかと、深くは考えずにとりあえず、シャワ−でも浴びようと浴室に入った。シャワ−はガス式ではなく電気式で、スイッチを入れると、電熱線が熱くなりそこを通る水がお湯になるという仕組みのもので、何も考えずにスイッチを入れて、蛇口をひねり、水がお湯になるのを待っていた。
なかなか温かくならないなあと思いながら、とりあえず、頭を洗おうと頭から水をかぶった。さすがに冷たく、早くお湯が出てきてほしいなあ、とのんきに水を浴びながら待っていると、「あれっ!? そう言えば電気が無いからろうそくを渡されたんやったら、このシャワ−も使えへんのとちゃうんか?」と、常識的に考えたらすぐに分かることに気づいた。とりあえず頭だけ洗い、すぐに出て身体を拭いた。あ−あ何でそんな簡単なことに気がつかんかったんやろう?と、愚かな自分を見て、一人で笑っていた。

 気を取りなおして、飯でも食おうとホテルから出た。確かに町には電気は無く、ろうそくやら、ランタンやら、懐中電灯なんかの明かりを頼りに人々が活動をしていた。適当に店に入り、飯を頼んだがやっぱり、ろうそくだった。しばらく街を歩いていると周囲は暗いのにそこだけ昼間のように電気がついている所を発見した。何だろうと中を覗くと、どうも電話局のような所で、そのなかでは全く普通に電気が使われていた。たぶん、町中が電気工事なんだろう。その証拠に町のいたるところには街灯があったし、店の天井にはちゃんと電灯も吊らされていた。
 フラフラと散歩し、夜食を買い、ホテルに戻り、暗闇の中、ライトでろうそくを探し出し、ろうそくに灯をともしすと、さっきまではろうそくに対して不満を抱いていたけどそんなものはもうどうでも良くなっていた。たまにはこんな夜も良いかな・・・。


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