<<ナスカに到着!!!>>



 ナスカの20km程手前に砂漠の中に立つ「ミラド−ル」と呼ばれる観察やぐらがあった。昔、地上絵の研究家であるマリア・ライヘという女性が建てたもので、これに登るとすぐ目の前に地上絵が見られるというので早速、登ってみた。
 10mくらいの高さから下を見下ろすと、地面に何かが書いてあるようなのでガイドブックと照らし合わせると、どうも、「手」と「木」のようで、かなりはっきりと分かった。
 そのやぐらから降り、さらにナスカの方に近づくと「ミラド−ル・ナチュラル」というのがあり、こちらは自然に出来た丘で、その上からも地上絵を見ることが出来た。こっちからはいくつにも延びる放射状の線だった。このどこまでも延びつづける線は53本もあるらしく、はっきりと見て分かった。
 地上絵のイメ−ジはコンドルに代表されているが、実際はいろいろなものがあり、動植物の描かれた物は30個くらいで、不可解な線になると200本近くあるらしい。

 地表絵が何を表しているのかは今だ謎で、いろいろな説がある。ミラド−ルを建ててまで研究したマリア・ライヘさんは地上絵はナスカ人のカレンダ−だったと説いている。それにしても地上から見たら、地上絵は何かで書かれているのではなく、ただ地表部分の黒い小石をどけて白い地肌を出している、といった具合に描かれてある単純なもので、まさかそれが何かを表している線だというのは解らないから、本当に不思議だ。

 とりあえず、無事ナスカの町につき、とうとうやって来たという感動に浸りながら、ホテルを探していると、早速、客引きが次から次とやってきた。値段を聞き、部屋をチェックし、すぐに落ち着くことが出来た。こういう町は完全にお客側が有利で交渉が楽だった。明日にでも地上絵をみるセスナツア−に出かけようと思い、ホテルの受付でいくらで乗れるか聞くと、US$50だという。ガイドブックにもその値段で書いてあったし、どうも、セスナツア−は割引ができないツア−だというのが法律で決まっているらしかった。
 ただ、実は昨日のミラド−ルの下でツア−斡旋のおっちゃんがいて「法律では、US$50だけど、俺はセスナを持っていて、良かったらUS$30で乗せてやるぞ!」と、言われていたので、そのことを言うと、相手はしばらく考え、「分かった!US$30で良い!ただし、他の客には言うなよ!」と、いうので交渉が成立した。
 ペル−の平均的なサラリ−マンの収入が日本円で¥20000くらいと考えると、ツア−代金は割りの良い収入で、多少やばくてもみんな法律を犯すのだろう。ナスカを訪れた観光客のほぼ全員がフライトすると思うと、すごい金額が動いていると 思うのだが、ナスカの町が特別に裕福な町には思えなかった。

 <<ナスカ・フライト>>

 昼過ぎには風で砂漠の砂が舞い上がるというので、早朝から出発した。ホテルの前にはちゃんとお出迎えの車が来ていて、向こうもなれた具合に話し掛けてきた。「エノ・アトハ・・、インカノハカニイキマショ!インカノハカ!」などと、言ってくる。多くの観光地でそんな輩がいたけど、ここナスカが一番多くいて、また日本語も上手かった。

 いよいよ、フライト。長年の夢が叶う瞬間だ!今回の旅で一つ一つ確実に夢が叶っていく。たぶん、人よりも多くの夢を見て、それらをどうしても実現したいという、貪欲さが夢の実現につながっているんだと思う。やっぱり、夢が叶うっていうのは良い!

 朝食は軽くサンドイッチにコ−ヒ−だけにしておいた。本当は何も食べないでおこうと思ったんだが、さすがに空腹には勝てなかった。フライト経験者が言うには、かなり揺れて、胃にあるものは全て出してしまうらしい。人一倍車酔いが激しかったので、どうしたものかと考えたが、結局、ビニ−ル袋持参という対策しか思いつかなかった。

 ほんまにこんな飛行機が飛ぶんか?という具合の飛行機だった。操縦士を入れて4人乗りでフアッと機体が浮いたかと思うと、既に離陸して次第に高度が上がっていった。飛行機には慣れていたけど、初めてちょっと恐怖を覚えた。
 順調にセスナは地上絵の方へと飛んで行った。操縦士が何かを言っているがプロペラがうるさく、何も聞こえなかった。もちろん、スペイン語の理解不足もあるけど・・・。どうやら、地上絵の上空に来ているらしかった。ここまではなんとか酔わずに来れたので、このままセスナ遊覧が楽しめると思ったその瞬間にグラッと機体が傾き始めた。もうそうなると、今まで我慢してきた物がどんどんと出てきた。隣にいた外国人も袋を用意していて、二人揃って座席にうずくまってしまった。それでも、ここまで来たのに無残に酔ってばかりではいられなかったので、体勢を立て直し、何枚か写真を撮ることに成功した。操縦士が「右の窓から見えるぞ!」と言ったかと思うと、「よし、次は左からだ!」と言って、大きく機体が傾いた。操縦士はそんなことを何回か繰り返し、サ−ビス精神旺盛にガイドをしてくれた。心の中では「もう良いから、水平に飛んでくれ!」と、叫び ながらも、地上絵を見ながら、感動していた。

 そして、あんなに地上絵に憧れてここまで来たにも関わらず、地上絵よりも感動したことは、どこまでもどこまでも広がるナスカパンパの大地に、地球が丸く見える辺りから続いているたった一本の道、パンアメリカンハイウェ−。そう、昨日走ってきた道が見えたときは、よくこんなとこ走ってきたなあ、と自分の軌跡を見て涙が止まらなかった。

−今、俺は地球の上を走っているんだ!−

<<インカのお墓>>


 ナスカ・フライトを終え、小休憩をした後、次は「インカのお墓」というツア−に参加することにした。ツア−といっても乗用車で移動するほどのこじんまりしたもので、他の参加者はフランス人の親子だけで、運転手も含め、4人でのツア−となった。
 この「インカのお墓」というのは、もともとナスカ文化が栄えた時期の墓地後で、その当時に埋葬された人々が身に付けていた織物や一緒に埋められた土器などのお宝を、盗賊達が掘り起こした跡で、そこら中に白骨が散らばっていて、中には黒い髪の毛や衣服の一部と思われるものまであった。そして何よりもの見物は掘り返されたままの姿で放置されているミイラたちだった。
 ここに来るまでにあちこちの博物館などでミイラを見てきたが、ここのミイラほど迫力のあるものは無かった。本当に目の前に放置されたいるのだ。もし、日本にミイラが発見されれば、相当すごい待遇で安置され、多くの見物客を集めることになると思うのだけど、それに対しナスカのミイラは表現はおかしいがなんとなく野生のミイラっていう感じがした。
 ここ、ナスカの気候条件だからこそ出来る安置の方法なんだと、妙に納得してしまった。ナスカの気候とは年間にほ とんど全く雨が降らずに、空気も極度に乾燥していて、自然と絶好のミイラ保管場になったんだと思う。
 日本に帰国後、ペル−で大洪水が起こり、砂漠の中に大きな湖ができたというニュ−スを聞いて、ミイラたちがどうなったのかと心配になった。今まで数百年間も安置されていて、今後もず−っとそのままで在りつづけるであろうはずだったのに、まさかミイラ本人たちもこんなに早く安眠を妨害されるとは予測もしていなかったと思う。こんな所にも異常気象の波が押し寄せてきているとは・・・。


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