FOGATA号の軌跡

<準備>


 −いらっしゃいませ−

 −ありがとうございます−

 何度言ったか分からないが、もし1年間これらの言葉を言い続けることが出来れば夢は叶うと信じ、言い続けた。
そして1年後、まさか本当に旅立つことになってしまうとは…。

 大学2回生の後期テストも終り、ごく平凡に学生生活をENJOYしていた。1回生の4月からサ−クルにも参加し、バイトでもそれほど生活に困らない程度稼ぎ、毎日が楽しかった。
 大学入学以前は大学生になったら思いっきりバイトして、海外に行きまくってやると思っていたが、今まで長期間クラブを続けられなかったのに何故かサ−クルにはまってしまい、そんな事は全く現実性の乏しい夢になってしまっていた。
お蔭様でフライパンを振るのと、包丁さばきは一人前(?)かな^^;
 ある日、いつもの様に世界を自転車で走った人の本をよんでいると、既に読んだ事のある本だったがある文章で衝撃を受けた。その文章とはそのサイクリストの資金集めについての回想だった。

 −俺はこの2年間何をしていたんだろう? 金が無い、時間が無い、というのは単なる甘えた言い訳にすぎず、本当にやる気があるんやったらどんなことをしても、たとえそれがめちゃくちゃ辛くハ−ドなバイトでもやって金を作るべきだ!−

 そうして、その日からバイト探しが始まり、まず思い付いたのが定番の新聞配達。これなら大学に通いながら十分可能だと思い、早速あちこちに電話をしたが、夕刊も配れないと駄目だと言われ全て断わられた。どうしたものかと悩んでいると深夜営業をしている喫茶店の募集広告が目に入り、
 −喫茶店なら今もやってるし、掛け持ちで働けば相当の収入アップになる!−
と思いすぐに電話をした。

 面接に行き、その場で採用決定された時の喜びは今でも忘れられない。あんなに喜んだのはそうなかった。これでとりあえず資金面での海外サイクリングへの道は出来た。

 それから、想像以上に過酷なバイトと勉強の両立が始まった・・・。

 まず、夕方17:00から22:00までB喫茶で働き、そのあとすぐに下宿に帰り10〜30分程仮眠を取り、次にA喫茶で23:00〜7:00まで働いた。
 その後、B喫茶の方は週1〜2回になり、その代わりに家庭教師のバイトを1つ増やし、A喫茶は週4〜6ぐらいのペ−スで1年以上も働いた。朝7:00にバイトが終わるととにかく寝た。そして昼頃起きて大学で講義を受けた。
 こんな不規則な生活に慣れるのは大変だったが、慣れてしまうとそれが普通の生活になってしまい違和感があることは無く、ただ週1回程、睡眠の為の日を用意していた。一度、実験の最中に居眠りをしてしまい教授を怒らしてしまい退場にもなりかけたりした。
 こんな風だったので資金作りの姿は人の手本というよりはむしろその逆だったと思う。やはり、学生の本分は勉強だというのが今後の旅の途中で思い知らされた。だが、本当にやりたい事をやる、人生の神髄を追求するという上では全く正しい道だったと信じている。

 バイトにも慣れてきた3回生の夏、第1回目海外サイクリングを実行した。バンコク(タイ)〜マレ−シア〜シンガポ−ル、2000km。マレ−半島縦断だ。初めての海外旅行という事もあり近場で比較的治安の良い所を選んだ。6週間の旅は海外とはどういうものかと知るには十分な成果を得た。そして再び連日連夜バイトに明け暮れた。
 普段は<海外サイクリング>というのが心身共の支えとなっていたのだが年末、年始はさすがに参った。
アルバイトの店内にて・・・2004年の春に別の店に変わっていたのが残念...
−もう、金はいらんから休ませてくれ! とにかく寝たい!−

と、弱音を吐いてしまった。

 この頃は、ほんの少しでも寝る時間があればとにかく寝た。ただし、一つだけ言えるのはたとえバイトといえど絶対に"こなしている"という仕事はせず、いつも真剣だった。というのも頭の中では旅の資金を稼ぐ段階で既に旅は始まっていると考えていたからだ。

 そして、大学の友人たちがそろそろ就職やら卒業研究やらで騒ぎ始めていた1996年3月、大学へ休学を申し出た。内心、工学系の大学なのですぐには許可が下りないと思っていたが、学科主任の教授は意外な程あっさりと休学願に判を押し「がんばれよ!」と、言ってくれ、最高に嬉しかった。その直後のサ−クルの飲み会で初めて歩けなくなるまで飲み、見事に酔いつぶれた。が、その時の酒はめちゃくちゃうまかった。
アルバイト 最後の日に花束をもらった
 4月からはバイトを少しずつ減らし準備に入った。周りの友人達は会う度に卒業研究や就職活動についての話をしていた。1年遅れる事について、全く後悔や不安は無かった。ただ、いつも思っていたのは

−今、俺は生きているんだ!−

と。
はじめはこんな感じでスタートです。
 出発直前、毎晩の様に壮行会が行われ、いつまでもこの場にいられたらなあ−と思ったりもし、出発の日まで一日としてゆっくりと休める日はなかった。

 1996年6月8日(土)
 いよいよ中南米自転車縦断旅行へ向けて旅立った。

 関空に見送りに来てくれた家族と友人達に別れを告げ、出発ゲ−トへ向かい、今まで全く何とも無かったのだが一人になった時、初めて涙が溢れて来た。

 いよいよ出発だ。KE(大韓航空)757便は定刻に離陸した。不思議と不安はなく、いや、あったのかもしれないが未知なる世界"南北アメリカ大陸"への希望と好奇心がそんなものは吹き飛ばしてしまっていた。


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