<<ペル−アンデス越えに挑戦!!!>>

 ペル−ではどうしても、ナスカとクスコ(インカ帝国の首都)は外せなかったので、どういうル−トを取ればいいか考えなければならなかった。というのも、ナスカ〜クスコ間のアンデス越えは相当な悪路で、しかも、山間の村にはゲリラが潜んでいたり、盗賊が多いと聞いていたためだった。このことをコロンビアで知り合ったバイクで南米を走っている人に相談すると、ゲリラの話は2〜3年前の話で今はもう落ち着いているということだった。盗賊も昼間は大丈夫じゃないかなあ?と、言っていて、実際にこの区間を自転車で走った人がいるというのでアンデス越えを決心した。その自転車で越えた人の情報によると、一昔に比べると治安状態は落ち着いているが、村の人々には「夕方5:00以降は走らない方が良い。」と、言われていたそうだ。

 すでに、インカのお墓ツア−のときにアンデス越えの道を確認していた。ナスカの標高はだいたい海抜600メ−トルで、とりあえず最初の峠は海抜4330メ−トルまで一気に上り詰める予定だ。

 いざ、挑戦してみると道はまだ出来て間もないアスファルトで、しんどいことはしんどいのだが、自転車にまたがったままで上ることが出来た。が、終日、全くの上りというのは初めての経験で、崖から下を覗きこむと、今まで上ってきた道がくねくねと曲がっているのが確認でき、ここを走るのもすごいけど、よくもこんな所にこれほどの道を舗装したなあと、造った人々に感心した。途中、民家がありその横でテントを張らさせてもらい、その日は休んだ。
 昼間は雲一つない青い空が広がっていたが、夜になって雲が出てきて星が見えなくなっていた。こんな所から星を見たらさぞかしよく見えるんだろうなあと思いながら、シュラフにもぐった。

 2日目も相変わらずに上りで、途中一箇所だけフラットか少し下りの所が2〜3kmほどあったくらいだった。標高が3800メ−トル地点のところにレストランがあり、この日はそこで泊まることになった。食事をとり、話し込んでいるうちにそうなってしまったのだが、こういう人々とのふれあいも楽しかった。
 この日はその家のおじいさんの誕生日だったらしく、「アヤク−チョ」地方の音楽に合わせ、民族ダンスを踊った。それがまたステップが速く、なかなかついていけなかったが、音楽に合わせて身体を動かしているだけで楽しかった。さすがに標高が富士山よりも高いだけあってめちゃくちゃ寒く、ほんの少し前までは雪が積もっていたと言うのだから当然のことなんだけど、そこにいた人達はよくそんな格好で寝れるなあという格好に毛布らしきものをかけて寝ていた。こちらは防寒用にデニムのシャツ、セ−タ−、そしてレインコ−トを着て、シュラフとシュラフカバ−という、完全武装でなんとか安眠を確保できたというのに・・・。

 朝起きるとパンパに昇る朝日は格別に素敵だった。そしてほんの少しだが頭の痛みを感じていて、そのことを言うと、「ここは標高が高いから、多分その為だろう。アルコ−ルの匂いをかぐと良い」と言われ、アルコ−ルを手にかけられ、試して見た。効果が出たのかどうかは分からないが、なんとなく気分は良くなった。

 出発のときにアルコ−ルを少し容器に入れて持たせてくれ、こちらからはお世話になったお礼に日本から持っていった絵葉書に感謝の言葉を書いて渡した。すぐに標高4200メ−トル地点にある軍隊の「Control」という、パスポ−トチェックなどをする日本風に言うと関所みたいな所に着いた。
 昨日、泊まった所は標高が3800メ−トルと言っていたが、たぶん、すでに標高4000メ−トルを越えていたんではないかと思う。そして、すぐに標高4330メ−トルの峠に着いた。ただ、上りついたときはそこが峠と分からずに、ちょっと走ってからさっきの所が峠だったんだと気づいた。せっかくの峠なんだし、何か目印でも置いていてくれれば良いのに、などと思いながらも、初めての標高4000以上の峠越えに感動しまくってしまった。

 ナスカからだいたい100km地点で、100kmの上りなんてなかなか体験できないし、それを自力で上りきった感動は何とも言えなかった。まして、それが標高4330メ−トルの峠となるとなおさらだった。そして、いよいよ下り。今までの上りでのストレスを一気に解消してくれた。峠を上り詰めた後の下りは、実際に経験した者でしか分からないが、至福の喜びと言える。しかし、世の中はそう甘くはなく、そんな喜びの時間もそう長くは続かなかった。なんと、快適な下りはたったの10kmしか続かなく、いきなりアスファルトが途切れ、石がごろごろと転がっている悪路に豹変した。やっぱり情報どおり、ナスカ〜クスコ間は悪路との闘いになりそうだ。一応、下りなんだがとてもじゃないが自転車に乗ってはいられなかった。フル装備の荷物を満載した自転車なので、ちょっとでも気を抜くとすぐにパンクするので、気が気で無かった。


 <<草原の中の雷>>

 朝から快適なサイクリングが出来た。快適と言っても、場所がここ、アンデスの中での話であって、普段、ダ−トって言うのは出来れば走りたくない道で、この区間はダ−トであるにも関わらず、パンクの心配がないほど整備されていた。

 一応、地図と速度メ−タ−から考えると次の町(集落?)の手前5キロほどの所にいて、天気がどうも崩れそうだっで、今日はそこでテントでも張らしてもらおうと、雨が降ってこない間にと先を急いだ。
 すると、辿りつく前に雨と雷。雷が通り過ぎるまで、自転車から離れておこう、と思い、道の脇に寄ると、後輪がパンクした。ツイテナイ! クッソ−と、いつもなら思うんだが、だんだん雨が強くなってきたのでそんなことを考える前に急いでパンク修理にかかっていた。タイヤチュ−ブを取り出したくらいから、雨が雹(ヒョウ)に変わってきて、近くで雷もなり始めていたので、これはヤバイ!と思い、辺りを見渡し、屈むとちょっと身体より大きいくらいの大きさの岩を探し、その側に走りより、屈んだ。
 辺りを見回すと一面の草原で、雷の餌食になるものはというと、自転車か自分の身体くらいしかないことに気づき、恐ろしいほど怖くなり眼鏡を外し、工具入れとして使っている合成皮革のバッグにしまいこんだ。それくらいで絶縁できるかどうかなんてのは、そのときは考える余裕も無く、「とにかく、雷が遠ざかるまではこの岩陰でじっとしていよう!とにかく、今、動いたら確実にやられる! 」そう、自分に言い聞かし、雷が去って行くのを待った。

 空には稲妻が光っていて、子供の頃によくやったように光った瞬間に数を数えたらすぐに続いて音が鳴り、もう、本当にヤバイと感じた。そうこうしていくうちにどんどん雹の勢いが増し、痛かった。かなりの大粒で辺り一面が見る見る白くなって行き、指先の感覚も無くなってくるし、もう、ただ震えている以外どうしようもなくなってきて、とにかく、雷が去って行くのを待った。去ったかなあと思い、自転車に駆け寄ってみるがまた、雷ですぐに引き返した。今度こそはと思い、パンク修理に取り掛るが、雹は一向に止む気配を見せず、それよりも増して行くかのようにさえ思えた。せっかく温めて、感覚を取り戻した指先はすでに感覚をなくしていて、思うようにパンク修理ができず、焦る一方だった。よく見ると大きな穴が二つ空いていて、手元にあったパッチを二つ使い、直したが、上手くいかず、パンク修理位と思いながらも、今思えばかなり動揺していたんだと思う。
 丘の影に家が何件か見えたので、もうそこまで歩こう!と決意し、自転車を押していくことにした。この距離なら1時間もかからないし、目的地が見えているというので、なんとか自分を取り戻すことができた。自転車を押して行こうと車道に自転車を押し出すと、ちょうど、小さなトラックが通り、その見えている家まで乗っけてもらえるというので、甘えた。「人はどうしようもなくなったときには、必ずどこからか差し延べてくれる手がある。」という、昔に学校の先生が言っていた言葉を思いだし、あの言葉は本当だったんだと実感した。
 あっという間にその家まで辿りつき、よくよく聞くとそこが地図に載っていた町で、集落と言うにもなんとも物足りない感じだけど、地図に載っているくらいなんだし、たぶん、この辺一帯では一番家が密集している地域なんだろう。早速、レストランで熱いコ−ヒ−を入れてもらった。もちろん、レストランって言っても、普通の家みたいなところにテ−ブルと椅子が置いてあり、そのすぐ横で生活雑貨などが売られているような、何でも屋のことだけど・・・。熱いコ−ヒ−は指先の感覚を戻し、凍えた身体中を溶かしてくれた。


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